:::藤沢市議会議員 柳田ひでのり:::藤沢市議会議員柳田秀憲のブログです。

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議員定数削減
この話題は、私情をまじえてしまうので、久しぶりに長くなりそうだ。

30日の本会議で、議員定数削減案が可決された。
これにより、来年の市議選は前回選挙より2名削減され、36人の定数で争われることになる。
この削減案は、9月定例会の議会運営委員会(以下、議運)で、ある市民から出された陳情を可決したことを受けてのものである。
そして、「時間をおいて」今12月定例会に新政会・公明の2会派により提案されたのだ。

この陳情に対して、
我が21社・民CULBは9月の議運で「反対」したのだ。
我が会派の議運委員となっている高橋議員は、38人からの削減には反対、譲っても「慎重」論者。
「4年任期の中間年で話し合うべき」であり、現時点では
「議論が尽くされていない」ので反対、であった。
古橋団長・伊藤議員も同様の考えだ。

対して、私は以前から述べているが、原則的に議員定数「削減論者」である。高橋議員はじめ、会派の先輩方の主張も尤もだと思うが、私は藤沢市議は
「20人程度でよい」
と思っている。
これは、私が3年半の議員生活からの「実感」にもとづいた判断だ。
だが、会派と違う議決態度は出来ないということで、私は会派の意に背き一人で「退席」したのである。

会派を割ってしまった、という気まずさが残る。
退席、っていうのも歯切れが悪い。
それに、内容が内容(リストラ)だけに、削減に反対する議員に対し、後ろめたさが無いと言ったら嘘になる。

それでも、この削減案は通したい、という思いがまさった。
議員は、根本的には削減に抵抗するだろう。次はいつ、こうした話が出来るかわからない。
それに、改選後、私が議場にいる保証はない。ならば、今、判断できるのならしたかったのだ。

さて、気を取り直して。
現在の制度は、議会開催日数やら、委員会の回数、その他市の「政策判断」、「政策評価」に要する時間が少ない。
ということは、一人あたりの仕事量が少ないのだ。
細かい話は省くが、委員会は定例会毎に一日しかないのだから、一人一委員会じゃなくて、二委員会に所属してもこなせるはずだ。

熱心に議会活動に取り組んでいる議員はいない、とはもちろん言わないし、それぞれ市民の付託に応えようと頑張っているのだろう。
それに、そもそも政策は現場で生まれるのであり、議会での議論は現場をふまえての話である。

議会開会日数が少ない、から仕事をしていない、ということではないかもしれない。
議会が無いときは、議員は現場の声を拾って歩くことになり、そこで市民の声が議員に伝わる。そして議会での議論へと向かう、という建前はある。

が、議員が市民と接する目的は、市民生活の実態を施策に結びつける、ということのはずだが、実際は
「市民の言うことをきく」「顔を売る」
ことが優先されてはいないだろうか?

「市議の仕事の大半は選挙対策であり、政策立案は後回しになっている」

と指摘されて、正面から反論出来る人がどれほどいるだろうか?
そして、もちろん私も含めて、各議員がどれだけ持論を市政に反映させただろうか???

「議員の数を減らすと、市民の声が届きにくくなる」

という人がいるし、そう主張する議員もいる。
が、何をもってそういうことが言えるのだろう?
ならば、「各議員の一般質問」や「議員による条例提案」などの議会での活動などから、例えば
「○○議員の一般質問での提案から××が予算化された」
「市総合計画に反映された」
「条例になった」
等々、具体的な論拠を示して頂きたいと思う。

声を届ける、っていうのは、「こういう事が起きていますよ」と議会で発言するだけでなく、改善策として条例化・予算化し、市民生活に(良いと思われる)影響を与えることではないのか。

私は議員になって、こんな事を言うと自己否定になるだろうが、市議会の場でどれほど実りある議論があったのか、正直疑問もある。
私自身、これは良い質問をした、と思うものもあったが、稚拙な質問も多かったと自覚しているし、反省もある。

いずれにせよ、支持者から、私の議会での質疑などについての注文は殆どなく、指摘されるのは選挙の心配であり(これは有り難いことでもある)、他の議員も同じような人は少なくないだろう。
「市民=支持者」の構図は、こと選挙に関しては当てはまってしまう。
私は、そうではない、と思って活動しているので、支持者から怒られており、次回選挙が怖い。

で、市民は一体、議員に何を求めているのだろうか???
(金銭的、道義的な)清潔さだろうか?
親しみやすさだろうか?人脈の幅広さだろうか?切れる頭脳だろうか?
政策立案能力だろうか?法的知識や調査能力か?
あるいは、言うことをそのまま聞いてくれることか?
その全てなのだろう、とは思うが、果たして私はどうかなあ…。

脱線したが、「政策より選挙」、の前では、
「市民の声の反映」
も空しい。

正直言って、私は
「議会のあり方」云々
とかいう議論に対して関心がない、というと誤解を招くかもしれないが、今の議会筋で言われている議会改革は、
「議会報を読みやすく、市民の興味を引くように」とか
「議員は一人一人独立した存在だから、現在の会派中心の議会運営はおかしい」とか
「市民が傍聴しやすいよう議会の休日開催だ」等々、抜本的な議論とは思えないのである。

ようするに、
「細かいことよりも定数削減や議会予算の減額っていうのが一番の議会改革だ」
と思っているのだ。
「金を絞られれば、知恵もでるだろう」
って言葉にするといかにも軽いが、私はまさに「現場感覚」から本気でそう思っている。議員定数削減論も、同じである。
「議員を減らせば、個々の議員はもっと頑張るだろう」
ということだ。
それじゃあ、リストラに突っ走る経営者と一緒じゃないか、といわれてしまうかもしれないが、議員は企業の従業員とは全然違うだろう。

次に
「大組織を背景にした人が当選しやすくなり、組織がない議員にとってハードルが上がる」
という批判についてだが、これも疑問である。

前回トップ当選の井手議員は、九州出身で、藤沢には縁がない人だ。組織だった支持母体もなく、まさに本人の言うとおり
「しがらみがない」
からこそ、有権者の期待を集めたのだろうと思う。もちろん、井手氏の
頑張りも大きいものだったのだろうが。

井手氏のように「下位当選者の倍以上の大量得票する」ということは、大きな組織を持たないがゆえ、組織内部の票割り等に関係なく運動を広げることができた結果だ、ともいえるだろう。

ちなみに、私も民主党の公認こそ得ているものの、労組や宗教団体、業界団体などの、組織だった応援は殆どない。もっとも、私の場合は元市長の娘婿だから、こんなことを言うと石を投げられるかもしれない。
だが、市議会選挙は難しい。市長なら葉山さんだけど、市議は○○さん、っていう有権者だって多いのだから、端から見ると楽そうかもしれないが実際は大変なのだ、って愚痴になってしまった。

「組織がない人は立候補しづらい」
ということは、心情的には理解できるし、現実あるだろうが、それは裏返していえば
「多くの人から応援されていない」
ということになってしまう。あまり上手い言い方ではないと思う。

そもそも、議会制民主主義(立法、予算)っていうのは数の論理が基本である。少数の権利を担保するのは「憲法」(司法)の領分だ。
もちろん、議会筋には少数にも常に心を砕く姿勢が求められることはいうまでもない。

とはいえ、実際は憲法そのものを決することも国会が多くを担っており、現行憲法は改憲の危機にある。国会議員が、どこまで
「誰もが生まれながらに平等」
という人権感覚を持っているのか、っていう疑問もあるかもしれない。
だが、衆議院などでいえば、それは
定数問題というよりも、一人しか当選しない故どうしても多数に傾く政策を打ち出さざるを得ない、という「小選挙区制度の弊害」だと思う。
ともあれ、最後の砦は国民投票なのだ。私は国民の良識を信じている。

また、脱線してしまった。ということで、少数派が立候補→当選がしづらくなる、という意見は心情的には共鳴するが、
多数決の議会制民主主義の前提ではその論理自体に無理があると思う。
反対の論拠は乏しかったと言わざるを得ない。

同時に、削減側も決定的な理屈はないだろう。

議員定数を巡る議論は、削減賛成であれ反対であれ、結局のところ、各党派の主張の根っこは
「党利党略」に尽きる、といったら言い過ぎか。
減らされたらウチの党の候補者はきつい、ウチの党は大丈夫、とか。

ちなみに、我が民主党は前回と違い複数擁立である。私を含めて次期市議選では民主党候補は定数減により、さらに厳しい選挙となるだろう。
じゃあ、党にとって不利になるかも知れないのに、何故お前は賛成なのだ?と問われて
「実感として多すぎる」
だけでは弱いだろうから、最後に、私の議会改革を述べたいと思う。

私が不思議、というか、疑問だったのは、削減反対側から、
「行政監視の機能が弱まる」という視点からの突っ込みが殆どなかったことだ。
本会議質疑の詳細を覚えているわけではないので、もし違ったら申し訳ないが、新聞にも上記に述べた
「『声が届きにくくなる』『大組織の候補しかいなくなる』的な反対があった」
としか書いていなかったと思う。

だが、議会の役割で、市民からの期待が大きいのは「行政の監視」ではないか。
議員の人数が減ると、監視機能が弱まる、のは確かだろう。行政を見つめる「目」が減るのだから。
市議は専門性や調査能力に限界があるとはいえ、やはり鵜の目鷹の目で各議員が行政をチェックすると、役所が引き締まることは間違いないだろう。
この、議会チェック機能議論があまりなかったのは、それこそ反対派もチェック能力には自信がない、ということになりはしないだろうか?

かく言う私も同感なのだ。情報は限られているし、弁護士や会計士のような専門性も議員にはない。
だから、代議制における議員の存在価値の多くは、市民の声を反映する
「政策立案」「予算化」、そして、その後の「調整」となるのだと思う。
調整のような仕事って、数が多いとかえって
「船頭多くして船山に登る」
に陥ることが多いのではないか。

政策立案についても、議員数が多ければいいものが出てくる、という種類のものではないだろう。
むしろ、野心的というか、アイデアマン的な首長や行政マンが一人いれば、行政がダイナミックに変わる、ということは過去の例から明らかである。
また、首長の政策ブレーンとなる、審議会の委員の選定などでも同じ事がいえる。とかく批判も浴びているが、国の「経済財政諮問会議」はその代表格だろう。

この時、議会の役割として、場合によっては暴走する首長を止めることが求められるだろうが、夕張の例でみるように、強い首長には、それに乗っかる議員が多数となることが普通だったりする。
この場合も、議員の数そのものが、行政の歯止めという点で、有効に機能するとは限らないのだ。

対して、チェック機能は数がものを言う部分がある。
だが、数だけでもだめで、質が極めて重要である。今回の質疑で殆ど話題とならなかったのも、それこそ削減反対派すら、議会ではチェックしきれないと認めたようなものではないか。

だったら、議員の数を減らして、その分監査を充実させた方がはるかによい。
行政監視は、オンブズマン(弁護士)や監査委員(公認会計士)といった専門家の比重を高めることで、より実効性が上がると私は思う。

こうした改革が、私にとっての議会改革、である。議員定数二名削減、はその第一歩に過ぎない。
議員削減には、議員からの抵抗が強い。だからこそ、議会内部で機運が高まっている時に踏み出すべきだ、と思っている。

ということで、議員を減らすことは、市民のためになる、だろう。
百歩譲っても、市民のためにならない、とは全く思っていないのだ。
| 17:10 | 議会(議会運営委員会) | comments(6) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
Comment








名無しさん、どうも。
なるほど、バカ左翼論って、わかる気もします。
ただ、左右の対立があり、保守と革新っていう対立もあるでしょうね。
以前、保守の定義を自分なりにしましたので、ここでは繰り返しませんが、一言でいえば
「人は偉くなると保守になる」
ということですね。偉いって表現は幅が広いので、一言で言い表すのは難しいので、ステージが上がるっていってもいいかもしれない。ともかく、厳密な言葉の定義はご容赦を。
ステージがあがるって、たとえば結婚、出産、育児、ということを経て、人生のステージが上がる、って言わなければ変わる、にしておきましょう。
さらには、家を買ったり等の財産の所有。
こうなると、普通は「保守化」しますよね。で、日本全体では豊かになったので、国自体が保守化してます。
だから、私はご紹介いただいたサイトがいう「左翼」「右翼」みたいな切り口には、共鳴する部分もあるものの、賛同しかねるところがあります。
豊かな中での「左右」対立って、暴論を言えば結局残るのは思想的な意味で
「趣味」
の問題だと感じます。少なくとも、私はそうした部分があります。自虐的な言い方をすれば、豊かな中での言葉遊びに過ぎないのでは?
ようするに、私はリベラルとか何とかの前に
「べき論」
が嫌なんです。馬を水飲み場に連れて行くことは出来ても、水を飲ませることは出来ない、っていう諺がありますが、私自身、自分がそういう人間なんですね。誰に何を言われても、結局自分が心底そうした気持ちにならないと、私は動かない、っていうタイプなんです。
だから、人にもあまり言いたくない。北風と太陽だと思ってます。いくらリーダーが旗を振っても、みんながそういう気にならないと、物事は変わらないと思ってます。で、我々政治に関わる人間は、そこのせめぎ合いをしているわけです。
私も、言葉の都合上「〜べきです」みたいな事を言うけれど、演説でもこのブログでも、普段でも「べき」を用いることは意識して避けています。

話を少し変えますが、法律のつくりっていうのは興味深い。
例えば、飲食店の営業許可ってありますよね。あれの考え方としては、
「一旦全ての飲食店の営業を禁じる。で、キチンと衛生管理等が出来る所だけ、順次許可していく」
と。こうした理論を、例えば教育に援用すると
「子どもはともかく『半』人間である。だから有無を言わさず物事をたたき込む。で、理解した子どもから、順次大人として認めていく」
という感じでしょうか。これ自体は、今で言う所の「左右、保革」は無く、実際そうした法体系で世の中回っています。
で、それを実際に、理論から実践に移す段階で、方法論の違いから、保革や左右に分かれるんじゃあないかなあ。

最後に、納税者の感覚で言うと、愛国心とか何とか、そうした物を法的に定義するってことは、予算化されるっていうことです。
愛国的な物には、予算が付きやすくなっていく、ということですね。私はそれでいいと思いませんが、まあ、税金っていうのはみんなが払うわけだから、多くの人がそう思うなら仕方ありませんけどねって、皮肉ですね。
またのご意見、お待ちしています。
posted by 柳田ひでのり | 2006/12/15 1:18 AM |
途中で送信してしまいました。
プラットホームについて、漠然と考えていたのは、
【「バカ左翼」と「バカフェミニスト」と「バカ右翼」の関係について】
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/50847903.html
みたいなことです。
>「バカ右翼」は右翼の側にとって利用価値があるが、「バカ左翼」は、左翼の側にとっては弱点以外にはならない。
この二つの差異をプラットホームと言う言葉で書きたかったのだと思います。
posted by 名無し | 2006/12/12 11:18 AM |
最初に、丁寧にレスして頂き感謝。
わたし自身は、リベラル支持なのですが、リベラルが「寛容」だという認識は持ってないです。
どちらに贔屓するでもなく書くと、二大政党どちらにも原理主義的勢力はいるわけですが、民主党の方が原理主義的政策が多いように思います。北朝鮮への空爆を考えてたのも民主党ですし(カーターのごたごたでやらなかったですけど)、イスラエルを控えているにも関わらず、歴史的には共和党の方がアラブ寄りだったと思います。対日政策でも、自国の利益確保のために日本非難してきたのは民主党、今回の選挙結果で、今度は対中批判に偏るかもと心配したりして。
イメージ的には、民主党は「一つの寛容」を実行するために、その政策の周辺課題に対し、とても非寛容な政策をとる。
自分は、理念的・イデオロギッシュな「寛容-非寛容」を嫌悪していて、具体的問題に対しては、具体的な問題解決にフォーカスしていきたいのですが、今の、日本の民主党についていえば、アメリカ民主党の悪い面ばかりが目立っているように思います。
今回の選挙は、両党共に、原理主義的政策推進者が駆逐されたという見方をしています。

プラットフォームについては、もうちょっと考えてみます。
posted by 名無し | 2006/12/12 11:04 AM |
すみません、文中で「反対」でいく、って出てきてますが、会派の方針と「反対」であり、定数削減案に対しては
「賛成」
ということです。
なんか、変になってしまいました。

普段あまり「反対」しないから、そんな風に書いてしまったのかなあ。
posted by 柳田ひでのり | 2006/12/06 7:12 PM |
名無しさんへ

えっと、まず確認したいのですが、名無しさんが仰る「プラットホーム」って、基礎とか、この場合は
「政治姿勢」あるいは
「議決態度」と、
みたいな意味でよろしいでしょうか。で、これを合わせたものを一言で
「説明責任」
ということになるのかな。
という前提で、話を進めます。

これは、「言行一致」とか、「公約遵守」みたいな話にもなりますね。今、自民党で騒がれている「復党問題」も同様なのだと思いますし、ご指摘の米政界の下半身スキャンダルも、違う次元とはいえ、
「言行一致」
から逸脱していますよね。

仰るように、保守とか革新、あるいはリベラルなど、大きな政治潮流の変化による選挙結果ではない、とある意味思います。
が、現ブッシュ政権って、ある種のイズムを掲げて、他を排斥しがち、という意味で
「不寛容」
です。そして、その不寛容が、アメリカ始め世界を幸福にしていないし、純化を唱えている人々が、倫理にもとる行動をとっていれば、それは皆嫌気がさすのも道理です。

その点では、リベラルは
「寛容」
です。「多様性」を重んじ、個人を尊重します。
で、こうしたリベラルの姿勢は、犯罪の増加等で社会不安が広がっている時に、国民からみると、犯罪者等に対して
「弱腰」で、
社会が不安定化する、と映ることもありますが、やはり「不寛容」で失敗すれば、「寛容へ」流れがいくという要素は、今回の米中間選挙でも当てはまる部分はある、とも思っています。

時の政権が
「純化路線、強気、不寛容」でも、
「寛容」でも、
いずれにせよ、常に問題は発生する。だからこそ、政権が、振り子のように保守とリベラルの間をいったりきたりする、という
「アメリカの政治制度はよい」
という見方もされますし、私も見習う点は多々あると思っています。まあ、いいとこ取りはないでしょうけど。

ともあれ、完璧な制度、完璧な統治ってないでしょうけど、私は
「北風と太陽」
ならば、「太陽」派なんですね。

さて、前振りが長くなりましたが、藤沢市議会での議員定数削減議論では、私個人と会派の方針が分かれて、私にとってはツライ判断を強いられました。

ただ、私はこの間、ずっと「反対」を唱えてきましたので、会派の先輩方や他会派を「出し抜いて」一人違う議決態度をとったわけじゃないです。
また、このブログでも以前述べてますので、それを見た市民に対しても、一応格好がついたとは思っています(って、退席ですけどねえ)。

ごみ有料化の際は、委員会で批判的な質問をしてますし、このブログや市民の方には「基本的に」「反対だ」と述べてきました。
柳田は「反対だ」と思った人は多かったです、実際。
そこを、最後の最後に
「ひっくり返して」
賛成した、ということになってしまいました。

あの時の種明かしじゃあないですが、どこかで「賛成せざるを得なくなるかな」という思いもあったので、反対の前に「基本的に」を忍ばせておきましたが、やっぱりあの時はつらかった。

なので、今回の定数問題だけは、何と言われようとヤだ、反対だ、初心貫徹だ、ってムキになった面がないとは言いません。

ただ、考えてみれば、当初反対でも、その後に様々な情報を分析する中で、
「考えが変わった」
となって悪いわけではないですよね。党派の方針や自ら発した言動に(事と次第によっては)拘泥する必要はないと思っています。

その際大事なのは
「説明責任」
ですね。私が、ごみの時に考えを変えた理由は、私なりに委員会質疑やブログで述べてきたつもりです。まあ、理解を得られたかは分かりませんが。

いやあ、長くなりましたが、私としては「説明できないことはしない」ように心がけていきたいです。
労いのお言葉、ありがとうございました。
posted by 柳田ひでのり | 2006/12/06 12:28 PM |
>市民は一体、議員に何を求めているのだろうか???
問いかけると返ってくる、そのやり取りがどの程度議会と重なるか、ではないでしょうか。
Yesが返ってくる、Noが返ってくるというような中身以前の話として。
ある種のプラットホームみたいなもの。


アメリカの選挙を見てて思ったのもそのこと。
共和党が負けたのは、イラクの評価よりスキャンダルの影響によるとは、カールロープの分析。
民主党が勝ったのは、反戦色を薄め、新しい保守たる若い議員を前面に押し出した選挙戦略の勝利。
WaPoも書いてるように、アメリカ政治の保守の終焉かリベラルへの回帰かという見方は間違っていて、共和党のプラットホームが遠く感じたということなのでしょう。

藤沢の議員定数問題も、案への賛否以前に、プラットホームの部分で評価・批判する声がほとんど。
議員定数の件では、大変大変、お疲れ様でした。
posted by 名無し | 2006/12/04 7:51 PM |
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