:::藤沢市議会議員 柳田ひでのり:::藤沢市議会議員柳田秀憲のブログです。

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市議会への挑戦その10
18.地球市民宣言

これで吹っ切れた。
「地球市民」で行こう、と決め、政策の元となる文を考えた。
後援会メンバーで知恵を出し合って
「こうしたほうがいい」
「これじゃ抽象的で分からない」
等々、議論が白熱し、ケンカ腰になったこともある。なかなか方針が決まらず
「こんな事で本当に選挙運動できるのか」
と弱気になったこともあった。
だが、みんな休日返上で付き合ってくれて、いいアイデアを出してくれた。もつべきものは友である。なんとかなりそうだ。

その合間に海岸に行き写真撮影。知り合いのデザイナーに頼んでカメラマンを手配してもらった。
暑い中、スーツを着ての撮影となった。そのせいもあってか?
「表情が硬い」
と指摘され、上着とネクタイを外そう、ということになった。
これが功を奏したのか私にしては珍しく、実に自然な笑顔だったらしい。出来上がりが楽しみだ。イラストは姉が描いたものをデザイナーが手直ししてくれた。編集も知り合いに頼み、まとめてもらう。

不慣れな私たちで作ったので誤字・脱字が続々見つかり、その度に修正する羽目になり、結局丸々一月かかってしまった。最終チェックも終わり、ついにパンフレット完成。皆よく頑張ってくれた。

表紙は私の写真と
「私たちは藤沢市民であると同時に地球市民でもあるのだ」
という
「地球市民宣言」
である。
抽象的かなとも思ったし、何か格好良すぎ?な感がある。
だが、同時に一番訴えたいことがここに凝縮されているのだと自分では思ってもいる。
写真もとても上手に撮ってくれて、これをポスターにも使った。
「すごく良い写真だね、実物より全然いいよ」と褒められる出来映えだ。

皆、本当に良くやってくれた。私は友人に恵まれているとあらためて思う。
選挙で知り合い、その後も親しくしている仲間、昔からの友人・知人、仕事を通じて知り合った人たち。それに中学・高校の同級生やバスケの仲間…。応援団が増えてきた。

選挙間際の今は親しくしている人たちに出馬表明し、支援のお願いする毎日だ。朝は駅頭でビラを配り、日中は支持者の方々に挨拶回り。
市民の皆さんにお会いするのが楽しみになってきた。色んな人に会いお互いに話し、聞く。
机上ではない、生の市民の声を聞き、自分の理念とすり合わせをしながら現実の政策に反映していく。

これまでも社会党や葉山事務所で選挙を何回かやってきたが、やはり自分の選挙は違う。私自ら集めてきた市民の声や街の情報、党の政策、そして葉山・山本イズムを自分なりに噛み砕き、
「柳田ひでのり」の訴え、となる。
これこそが、政治家の醍醐味だ。
選挙まで後残りわずか。私を応援してくれる人たちのために、そして藤沢を元気にするために、当選に向けて精一杯頑張る覚悟だ。
私の姿を見かけたら、是非声をかけて欲しい。あなたの声が、街づくりの一歩になるのだから。(終わり)

(この手記は、2003年の初出馬の際に書いたのを加筆・修正したものです。登場人物の肩書きや政党名等は当時のものですのでご了承ください。)

| 23:37 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦その9
17.市議会挑戦を決意

そんなある日、統一地方選挙まで残すところ一年をきった頃だろうか。
○○市議が引退する、とか今度はこういう新人がでてくる、という話が出始め、葉山陣営からもだれか出るのではないか、という憶測が飛ぶ。政治に関係する人間は多くはないので、噂の対象に私も含まれることになる。
そして、長く葉山を支えてきた瀬川進市議が、引退を決意した。
葉山の関係筋では、水面下で瀬川氏の後任候補選びが始まっていた。

そして、ある人から
「柳田くん、瀬川さんの後任として、今度の市議選に出なよ」
と冗談とも本気ともつかない話があった。その人は、いつも人を煙に巻くような話しぶりなので、まともに受け取っていいのか正直分からなかった。
が、自分は本格的に社会運動をしたい、という気持ちが芽生えていたから、冗談には思えなくなっていた。

「私はこれまで選挙を手伝ってきて、いろいろな人に会い、話を聞く機会に恵まれた。そして葉山峻の政治活動を間近に見ているのだ。自分の経験を活かす運動のやり方はやはり政治の道か」
「違う。いきなり政治の道に進む前にやることはあるだろう。それに今の仕事はどうするのだ」

ずいぶん悩み、考えた末「市議会選挙に出よう」と決心した。選挙まで一年を切った、6月のことだった。

この話をまず、妻にした。以前から勧めてくれていた義母ともども大賛成してくれた。
続いて両親、姉に相談した。会社の仲間にも話した。
「市議をやってみたい」
「会社の仕事は何とかなるから頑張れ」と同僚。
「応援するから頑張って」と社長である母も言う。姉も賛成してくれた。しかし小言も忘れずに。
「学校時代に、みんなともっと仲良くしておくべきだったね。」
痛いところをつく…。

「お前は社会運動の経験がない。まずはそこからではないか?」
と父。その通り、それは重々承知の上で是非やってみたい、と説得し何とか理解を得た。

そして岳父、葉山峻に出馬の決断を報告。
「よく決心したね。頑張ろう。」
といってくれた。百人力である。
山本元助役にも話をした。とても喜んで、激励された。政治の師匠二人が応援してくれるのだから、これはもうやるしかない。そして、市議選に出たらとアドバイスしてくれた人に連絡。
葉山選挙で一緒に頑張った葉山後援会の幹事、そして先輩市議にも打ち明けた。
「いろいろ考えましたが、来年の市議会に挑戦したいと思います。」

今度は中学・高校の仲間だ。彼らの支持が得られなければ、選挙運動は出来ない。私は自分の意欲や政治信条などを説明した。最初は懐疑的な空気があり、
「周りの人に言われて出るんじゃないのか。そんなの無意味だ。」
という意見も出た。
私は市長・代議士の娘婿である。市議選を奨めてくれる人がいたのは事実だ。だが、もちろん最後は「自分自身で」やってみたいと思ったのだ、ということを重ねて説明した。
議論するうち、そこは親友、理解してくれた。
「俺たちも応援する、是非頑張ろう」
といってくれたのは嬉しかった。
みんな私と違い政治とは距離を置いている。その彼らが少しでも政治に関心が出るようになるだけでも私が出馬する意義がある?と勝手に喜んでしまった。

次に葉山後援会の幹事会で出馬を表明。
だがそのときは、これといって政見もなく、ただ選挙に出たい、という程度のことしか話せなかった。
すると、案の定皆から厳しい意見が続出した。
「葉山をあてにしてもダメ。君自身の仲間を作り、運動しなきゃ。」
「どういう政治を目指すのか、よくわからない。葉山は初出馬のときから理念、政見がしっかりしていたよ。大きな夢もあった。」

正直、葉山峻と比べられるとツライものがある。やはり私程度の経験・能力では出馬は無理なのか。だがやると決めた以上、後には引けない。自分なりに問題意識や政治に対する思いもある。それをどうやって伝えればよいのだろうか…。
そんなある日、私が書いた文章を手に山本元助役に相談しに行った。一読後、
「これでは君がどういう立場なのか、分からないよ」
とまたもや指摘されてしまった。
「君が一番言いたいことを堂々と主張しなさい」

これでスッキリした。市政には関係ないと思っていたが、ずっと頭にあった、一番言いたいことといえば
地球市民
だ。
(続く)
| 08:22 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦その8
15.一社会人、親として政治を眺めると

96年の総選挙後、私は母が経営する不動産会社の社員となった。そして、ハウスメーカーや設計事務所に出向し、住宅・建築設計の補助などをしていたが、98年に自社店舗を開店するに伴い会社にもどった。
平成不況の今、小規模の不動産業の経営環境は大変厳しいが、一から十まで自分たちで決めることが出来るので、やりがいもまた大きい。
2年前から私の友人も参加し、徐々に仕事も増えてきた。

ご承知の通り、建築業や不動産業は許認可が多く、常に役所の動向を気にする必要がある。
土地利用に関しても、用途地域、建築制限、都市施設計画など、役所の
「都市計画」
が重大な影響を及ぼす。
駅前などの商業地区をどうやって盛り上げるのか。住みよい住宅地とはどういうものか。これらを司る、行政の役割・責任は重い。

例えば、一般的に人気のある住宅地は公共財・サービスが行き届いていて、建築制限を設け、住民自身も街並みを維持するために自ら気を配っている、という感じだろう。
一方商業地は、バブル崩壊後、ビルの空きテナントが目立ち始め、商店街のシャッターは下り、工業用地においても工場の撤退が進み、商業地域・住宅地問わず地価の下落は止まらない。

土地の値段が下がるということは、これから家を持とうという人には福音だが、現に持っている人や売ろうとしている人にはつらい部分もある。多額のローンを抱えているのにリストラされ、家を売ろうにも価値が下がっていて借金だけが残る…。
このような悲劇も珍しくなくなってきたのだ。行政は手をこまねいて眺めるしかないのだろうか。
業界から行政に対しては、容積率を緩和し今以上に大きな建物が建てられるようにして欲しい、あるいは工場の跡地にも住宅を建てられるように用途地域の変更を求める声が高まっている。

しかし、用途変更や容積率の変更は、工場廃液等により汚染地への住宅建築問題を生み、住宅密集・人口増はゴミや下水道への負荷増に直結する。それに、それまであった樹木が切り倒され貴重な緑地が失われることにもつながる。
このような新たな問題も生む可能性があり、おいそれとは出来ないだろう。ただ規制緩和すれば済む話ではない。

住宅の作られ方にも疑問が出てくる。
住み手より作り手の論理が優先される場面が目に付くのだ。
各々が必要な大きさの家を建てる、というより、予め売りやすい金額を設定して、それに合わせて予算を組む。あるいは大量に流通している建材を使った工期短縮・コスト縮減策等々、
「家」は見事に商品化されている。

その結果、一人当たりの面積は不足するし、隣家との距離も十分には確保できない。土地が細分化された住宅地が増えて街並みが破壊され、古くからの住民との摩擦が生まれている。
さらには、化学物質にまみれた「シックハウス」ができて、健康に害を及ぼすこともある。市民から
「業界任せには出来ないので行政の指導・監督、支援を強化して欲しい」
との声も聞かれるようになった。
一言で「規制緩和」というと誰もが賛成するかもしれないが、住環境を守るために、規制強化の声も一方では強まっているのだ。

そして、私も結婚し子供がうまれた。かけがえのない宝物だ。
その子供は、しょっちゅう熱を出したり怪我をしたりする。そうなると気になるのは小児医療である。夜間診療体制はどうなのだろう。
また、我が家も共稼ぎだが、働く女性の出産・子育てのケアはどうか。
うちは夫婦の両親が近くなので出産時や子守の手助けがあるが、そうでない家庭も多いはずだ。保育園の待機児童問題はどうかというと、まだまだ解消していない。
さらに、うちの近所のお年寄りが倒れ、家庭では介護しきれなくなったので特別養護老人ホームの入所を希望したが、空きは数年待ちという。
私の両親もいつ倒れてもおかしくない年になってきた。さりとて、十分な貯えもないので有料老人ホームに入るのは難しいだろうが、在宅介護も大変だ。自宅も老後を想定した造りにはなっていない。
グループホームなど、様々な介護の形態が出てきているが、なにが本当に本人・家族のための介護なのか…。
このような行政課題を、自分の問題として考えるようになってきた。

そして、凶悪犯罪の多発、失業者増、環境破壊、国際テロ…。今まで以上に社会問題が気になる。この子たちが大人になるころには、世の中はどうなってしまうのだろうか、親として心配でならない。特に地球温暖化などの環境破壊は深刻な状況だ。 

こうした数々の問題を解決する糸口はどこにあるのだろうか。自分は何をすべきか、何が出来るのだろうか。まず少人数のグループの運動から始めるか。それとも大きな運動組織に入って勉強しながら活動するのか。
(続く)
| 11:02 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦その7
14.「市民が主役」の政党を

総選挙後、民主党の組織は大幅に変わり葉山峻県連代表も交代した。最初の民主党とは違う党になったのかもしれない。
しかし、自民党に代わる勢力としての民主党の存在意義は変わらないどころか増すばかりである。
政権交代が可能な政党の存在が、日本のためにはどうしても必要だ。長く政権の座にいると、間違った既定路線を修正することが困難なのは、現在の自民党・国家官僚をみれば明らかだろう。
一方民主党はというと、まだまだ地方組織が弱いと思う。藤沢市議会議員も民主党籍は一人で、藤沢選出の県議会議員はゼロだ。
環境保護団体などの市民運動との連携も大切だ。政治家だけでなく、ひろく市民に参加してもらわなければならないだろう。有権者の民主党に対するイメージは既存組織中心の政党、といった感じではなかろうか。
そういうイメージを払拭するために、市民に広く開かれた政党を目指してどういうやり方がよいのか、模索している最中だ。代表選挙でのサポーター登録や選挙時の候補者公募はその一環で、今後徐々に成果が上がってくるのではないだろうか。

さて、話が前後するが、ここで私たちが参加した「旧民主党」の基本理念を簡単に紹介したい。これはジャーナリストの高野孟さんのホームページで見つけたものだが、一般にはあまり知られていないものらしい。私たちが戦った96年の総選挙と同時に民主党は結成されたのだが、その際の内部文書、というものらしい。
まず、
「20世紀の残り4年間と21世紀の最初の10年間をつうじて、この国の社会構造を根本的に変革していくことをめざして行動することを決意した、戦後生まれ・戦後育ちの世代を中心として[老壮青のバランスに配慮し]た、未来志向の政治的ネットワークである。」

と最初にある。
96年総選挙の時に葉山峻の民主党公認をめぐって紛糾した際、若い人しか必要ではない政党なのか、と疑念を抱いていたのだが全くの杞憂だったのだ。
他にも、葉山峻のような首長経験者の国会議員は市民・地域の実情に精通しており、「官僚主導・中央集権システム」
を終わらせて
「多極分散・水平協働型社会」を築くためには欠かせない存在と位置づけられていることも目を引く。

この綱領は、以下の4つの柱が建てられている。

ー匆餽渋い裡隠娃闇目の大転換
明治以来の欧米に「追いつけ追い越せ」には都合が良かった官僚主導の中央集権システムが、100年たった今、通用しなくなった。代わって市民自らによる
「自立と共生の下からの民主主義」と、
そのための
「多極分散・水平協働型」の「市民中心社会」を築き上げなければならない、ということだ。
私が葉山峻や山本元助役から学んだ「市民主権」がここでも出てきた。
この「100年目の大転換」は官僚に依存した利権構造の既成政党には出来ない、として全く新しい政党の必要性を説く。そして地域・全国・世界の各レベルでものを考える、地球市民的な意識と行動を求めるものになっている。
私もこれに大いに共鳴したのだが、特に「地球市民」という言葉が私を捉えた。

■横娃隠闇からの政策的発想
まず「2010年にこの国のかたちをどうしたいか」という発想でスタートしているところが私には新鮮だった。確かに、現在・過去の経験や習慣でものを考えると
「しょうがない、世の中そんなものだ」
となりがちだ。そうならないために、進んだ社会であろう10年後からの視点で考える、ということになる。2010年のかたちは、5つからなる国の未来像が語られていて、最後に
「2010年までにそれらの目標を達成して世代的な責任を果たして、次のもっと若い世代に引き継ぐ」
という「世代責任」を明言しているところが重要だ。現代に生きる我々は、未来を生きるであろう子供たちに、より公正な社会を引き継ぐ責任があるのだ。

MО精神にもとづく自立と共生の原理
「友愛」は鳩山由紀夫氏のキャッチフレーズだが、これは「基本的人権」に、いうなれば「地球環境」的視点を加えたものだろうか。
この世界は「人間」だけのものではなく「全ての生きとし生けるもの」のものだ、という理念であると思う。エゴイズムを排して、自己と他者、日本と世界、人間と自然といった私たちを取り巻く全てのものと「共生」、共に生きているのだ、という視点である。

ぁ岼貎涌貔策」を持って結集を
個人やグループが自立しながら、横にネットワークを張りめぐらせる。そして、だれかが課題を発見して解決策を提示すれば、そこに共感する人々が集まる。
人に言われたから参加するのではなく、自分の問題意識を持った「自立した個人」の集まり、ということだ。さらに
「また私たちは、世界に向かって開かれたこの政治ネットワークの運営に当たって、電子的な情報通信手段をおおいに活用したい。私たちは電子的民主主義の最初の世代であり、地球市民の世代である。」
ここでも 「地球市民」が出てきた。
そして結びに
 「この『党』は市民の党である。いまから21世紀の最初の10年間をつうじて、この『100年目の大転換』を担おうとする覚悟をもつすべての個人のみなさんが、『私はこれをやりたい』という『一人一政策』を添えて、この結集に加わって下さるよう呼びかける。」
とある。

「一人一政策」。これならば私にもできるのではないか。
何か一つ自分のライフワークを見つけて、それを手に持って大きな運動体へ参加する。そして官僚主導の与党に対抗していこう、という試みは非常にやりがいがあり、是非、挑戦してみたいと感じる。
そういう一人一人に幅広く呼びかけ、基本理念が合意されれば、あとはそれぞれの専門を生かして知恵を出し合う。党はそれを束ねるための道具に過ぎないのだ。

既成政党は「党」が主役で個人・市民は二の次、との感想を抱いていた私は、この文書に触れ、改めてあの時民主党に参加したのは間違いではなかった、と確信した。
民主党は葉山峻たちが願い続け、努力してきた「市民が主役」の政党を目指しているが、まだ道半ばだ。後輩である私たちの手で、「市民が主役」を実現するために、さらに仲間を増やしていきたい。次は私たちの出番だ。(続く)
| 00:56 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦その6
11.さようなら、社民党

さて、選挙本番が近づく頃、巷では鳩山新党のうわさが出てきた。
「鳩山兄弟が新党をつくるらしい」
「社民党も参加するのでは」
「いや、社民は全員ではないようだ」
等々、情報が錯綜していた。
そんな中、藤沢・寒川選挙区でもう一人新党から出馬するという話が浮上。小選挙区は一人しか当選しないのだから同じ政党から二人出馬することは有り得ない。これからどうなるのだろうか…。
そして、ついに新党結成。
その名は「民主党」だ。
鳩山由紀夫・邦夫兄弟をはじめ、さきがけの菅直人氏、前北海道知事で「社会党のプリンス」といわれた横路孝弘氏など錚々たるメンバーが集まり、自民党に引導を渡す政党が誕生したかと、日本中が沸き立った。
我が葉山峻も民主党に参加するとの記者会見を行い、他陣営に先手を打った形となったのだが、後になんと鳩山代表が「(年寄りには)遠慮していただきたい」との「選別」発言をしたのだ。社民党の議員も民主党に移るはずだったのだが、これに猛反発し大混乱となり、社民党の合流はご破算となった。鳩山新党とは、若手政治家の党にするということだったのか。
葉山峻は60を過ぎ、とても若いとはいえない。若い候補が公認となってしまえば、葉山の処遇はどうなるのだろうか。
葉山陣営は混乱し、ずっと共に行動してきた社民党の人たちは葉山のもとを去った。私もどうしたらよいのか分からなくなり、
「社民党が去ったいま、私もここにはいられません」
と言ってしまった。しかし、慰留されて残ることにはしたものの、私自身混乱していた。葉山後援会の方々や支援団体の人達と議論し、結論は
「何党だろうが、俺たちは葉山峻が好きで、政治家として信頼しているから応援するのだ」
ということだった。
私は最初の選挙以来、社会党・社民党にお世話になり、その時以来の仲間もいたので社民党と葉山との間で板挟みに苦しんだ。だが、社民党との決別が一番つらかったのは、長年いっしょに戦ってきた葉山峻本人なのは言うまでもないのだ。
私も腹を決め、「民主党の」葉山陣営の一員でいることを選んだ。

12.民主党の比例代表に

紆余曲折はあったが、選挙区は若い新人候補、比例区は葉山ということで落ち着いた。
葉山の豊富な経験からすれば当然のことかもしれないが、小選挙区で戦うつもりでいた私たちが拍子抜けしたのは事実だ。
しかし、どういう形にせよ葉山峻を国政に送りだし、そこで活躍してもらうためにやってきたのだから、これもアリなのだ、と自分を納得させた。
その頃、地方分権が国政の大きな課題だったので、長く首長をした葉山峻のキャリアがものをいうと期待していた。それに、平和憲法を護ると明言する議員が減る中で、その存在はますます重要になるはずだった。

しかし、有権者に訴えるのではなく、党本部の決定を待つ身なのだ。選挙だったら負けないのに、なんてじれったいのだろうか…。
公示と同時に比例順位が発表され、結局葉山候補は南関東比例区一位と決まった。このとき、葉山峻の当選は事実上決まったのだ。そうなると、後は他の候補者を応援するのが葉山候補の役割となる。
葉山候補、後援会事務局長と私の3人で、神奈川県内の民主党候補者の応援に走り回った。小選挙区で戦う候補者は激戦で、運動も熱が入っている。ところが、こちらはもう選挙は終わったも同然。
複雑な心境だった。

13.葉山峻当選、国政へ

初めての小選挙区制の下で自民党、新進党、民主党が激しい選挙戦を繰り広げた。
そして投票当日。
支援者が葉山邸に集まりテレビを見つめる中、開票後まもなく葉山峻に当確が出る。比例区一位なので当然と言えば当然だが、やはりうれしかった。一方、選挙区では残念ながら民主党は破れ自民党候補が当選する結果となり、波乱の衆議院選挙は終わった。
選挙後、葉山峻は民主党神奈川県連合代表となり、県連のまとめ役となった。斉藤勁参議院議員も社民党から民主党に移り、神奈川県連をともに支える立場となった。
国会議員となった葉山峻は、地方分権一括法の際に代表質問を行い、地方自治の専門家として存在感を示した。また、周辺事態法、沖縄特措法、そして最近の有事法制などでは党の方針と対立しても信念を通し反対に回るなど、一貫して平和を訴える、その政治信条を変えることはない。
市長時代と違い、なかなか藤沢市民にその活躍ぶりは伝わらないのがもどかしい。
この間も政界の変動は終わらず、新進党が分裂し一部が民主党に合流、「新」民主党となっていく。あの激しい選挙で対立候補として戦った当時新進党の江洋一郎氏も民主党に合流し、同じ党の仲間になった。2000年の衆議院選挙では私たちも江氏と共に戦い、見事当選を果たし自民党から議席を奪うことができた。(続く)
| 16:03 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦その5
9.葉山峻との出会い

大緊張の初出勤。葉山邸に向かう。
「おはようございます」。
お手伝いさんが声をかけてくれた。お手伝いさんが家にいるなんて、私の周りでは聞いたことがない。さすが、大物。
「おはようございます。」ついに葉山峻氏登場。満面の笑みを浮かべている。この笑顔が人気の秘密なのか、私の緊張もほぐれる。私は簡単に自己紹介をする中で、あまり道に詳しくないこと、学歴もなく教養・常識もないなど、もっぱら言い訳に終始した。
その日は運転の仕事はなく、事務所で片付けなどをした。事務所所長は、前の市長選挙で一緒に頑張った市議会議員の古橋先生だ。知っている人がいて助かる。
夜に、葉山事務所スタッフが歓迎会をしてくれた。

幼い頃から藤沢市長といえば「はやま・しゅん」だった。
小学校の3年生か4年生のとき、社会科見学で市役所に行き、そのとき市長室に入れてもらい、若かりし葉山市長に出迎えてもらったことをかすかに記憶している。
葉山峻とは一体どういう人物なのか、ということを周りの人からずいぶん聞かされた。
鵠沼の旧家の跡取りであること、父親が共産党活動で戦争中に投獄されていたこと、戦後は市議会で革新系のリーダーとして活躍したが病に倒れ、今度は妻(峻氏の母)が跡を継いだものの任期半ばに議場で倒れ、ついに峻氏が25歳にして市議会議員に挑戦し見事当選したこと等々…。

親が戦争に反対し弾圧された、という自らの過酷な体験を原点に、平和運動の先頭に立ち、国や米軍と対峙してきた、という程度は私も少しは知っていた。核兵器の廃絶を訴え、人権を第一に考えた政治家…。
自身の「体験」に基づく言論は、やはり皆の心に響く。人生を藤沢市政と平和運動に捧げてきた、本当に尊敬できる政治家だ。
一方、市民オペラや市民オケなど、藤沢発の文化育成にも尽力した。自らも市広報紙にコラムを掲載したり、著作を発表したりと文章にも長けていた。大島渚監督をはじめ文化人や学者との交流も広く、まさに「文化市長」でもあった。
私は葉山峻の、政治家としてのキャリアの一部しか知らないが、これからもその足跡をたどり、政治とは何か、問い続けたいと思う。

10.山本助役

私の仕事は葉山峻の運転手だが、正式には
「新政治経済改革研究会・事務局次長」
ということとなった。
「次長か…。」
なんだかおかしい。なぜなら新政研には常勤は3人しかいない上、私を除く二人が超大物(代表 葉山峻、事務局長 山本篤三郎)なのだ。
私の上司は山本事務局長、ということになる。
氏は葉山市政を支えた名助役で、皆に敬愛されている。
葉山市長に誘われ、出版社から市役所に入り、葉山市政後半の三期12年助役を務め辣腕を振るったのだが、まさに言行一致の人だ。

山本さんとの思い出を一つ紹介したい。ある日「新政研」のイベントを開催した。講演会の弁士は著名な経済学者で、なんでも普通ならなかなか来ていただけないらしい。でもそこはさすが、山本事務局長の顔だ。
そのレジュメ作りを私が担当したのだが、経済の説明にはグラフや表が欠かせない。事務局長に
「これできる?」と問われ、
「出来ます」
といったはいいが、思った以上に大変だった。私のパソコンスキルや経済学の知識では、グラフや図をを上手につくるのは苦しかったのだ。家のパソコンで姉にも手伝ってもらい、四苦八苦しながらなんとかできた。
この仕事をする前に、私は
「わが事務所にもパソコンを入れましょう」
と提案したことあったが、
「今の若い人はパソコンがなければ仕事ができないって言う。昔はそんなものはなくても仕事していたのだ」
とお叱りを受け恐縮していたところだった。結局この仕事が認められ(?)、めでたく事務所にもパソコン導入となった。

山本事務局長と同行して市内各地の産業を取材し、また、行政のことを直に教えていただいた。藤沢の歴史、社会主義や市民運動の歴史など貴重なお話もいただいた。読むべき本を貸してもらい、「尻をたたかれた」こともあった。
私が葉山候補の運転に駆り出されると、
「柳田さんをあまり使わないで下さい、私の唯一の部下なのですから」
なんて大真面目に抗議していたのが可笑しく、また嬉しかったのも今となっては懐かしい思い出だ。
葉山峻同様に、山本元助役も本当に大切な師匠だ。
| 11:40 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦その4
6.1996年藤沢市長選挙

翌年2月に藤沢市長選挙が行われた。
六期の長きに亘って市政を担った葉山峻市長は不出馬。新人同士の争いとなる。
革新系の候補が立ち、市長選対本部に社民党(注:日本社会党は社会民主党と党名を変えた)の人がいた関係で、三たび選挙を手伝うこととなった。知っている顔がいるので心強い。
このときも多くの人と知り合うことができた。この選挙には私と同年代の仲間が結構多くいて(実は妻ともこのとき知り合った)、選挙事務所の雰囲気も明るく、働きやすかった。


私は選挙戦の最終盤しか手伝えなかったが、これも大きな選挙だった。市長選挙だから、社民党の人だけでなく他会派の市会議員や市民運動家とも一緒に選挙運動し、政治といえば社会党しか知らない私には勉強になった。
この選挙は現職が退き新人同士の争いという構図となり、前市長の流れをくむ人か、それとも保守系の新市長に市政を託すのか、といった明確な争点があったと思う。
そして、結果は敗北。様々な原因があるのだろうが、前回選挙で惜敗した現市長陣営が死に物狂いで運動したからだと思う。とにかく激しい選挙戦だったが、物心ともに相手方に及ばなかったということなのだろう。

7.平和運動に参加して

三度の選挙を通じての感想を一つ。
社会党系の人たちは優しくて暖かく、経験豊富なベテラン市議も私たち若造と対等に接してくれ、高圧的なところが全く無いのだ。
こういう集団だから、私も声が掛かれば駆けつけたのだろう。

その後も社会党系の運動に関わった。
この年はフランスの南太平洋における核実験、米国スミソニアンでの原爆投下機の展示などが問題視されていた。

こうした核保有国の身勝手な態度に抗議したわけだ。米国海軍に対して核持込疑惑への抗議デモの際は、横須賀で宣伝カーの運転手をし、原水爆禁止デモのときも宣伝カーの運転手となり、県内各地を行進した。
8月の原水禁広島大会にも同行した。爆心地に立つと、当時の悲惨さを想像せずにはいられrない。二度とこういう悲劇があってはならないと強く思う。

これらの経験は貴重なものだった。一連の運動に参加したことは、私にとって政治を考える上で絶対にゆずれない根本になっている。

8.衆議院議員選挙

我が方にとって市長選挙敗北のショックは大きく、市役所のざわめきも収まらぬ5月、社会党県本部でお世話になった人から連絡があった。

元上司
「今度、衆議院の選挙がある。はじめての小選挙区選挙だ。前市長の葉山峻が出馬するから、また手伝ってくれ。」

私はこの話を聞いて興奮した。
「葉山峻」を藤沢で知らぬ者はいない。
藤沢市長を六期24年つとめ、全国革新市長会会長、非核都市宣言自治体連絡協議会会長など、革新系の要職を歴任した大物政治家だ。選挙慣れしてきた私にとっても、選挙をやるなら一度は関わりたい、憧れの人物だった。

衆議院議員選挙となると、大規模で激しい選挙となるだろう。しかも小選挙区に変わったということは、当たり前だが一人しか当選しないということだ。市長選挙と同じと考えていいのかもしれない。
その市長選挙で連戦連勝だった葉山前市長が、いよいよ国政に挑戦と選挙に携わる人間のあいだでは大きな話題になっていたのだ。

私  「はい、よろしくお願いします。」
元上司「じゃあ、今度選挙事務所に来てくれ」

ということで、葉山事務所に向かった。そこでは元上司氏、葉山夫人、そしてこの前の市長選挙で知り合った葉山峻氏の長女(今は私の妻)が待っていた。

元上司「葉山峻の運転手をやってくれないか」
私  「ちょっと待ってください、務まるわけがないですよ」

考えてみれば当たり前だが、私の仕事は運転手にきまってる。運転手以外やってないのだから。

元上司「大丈夫だ、あんたしかいない」
私  「…」

市長というのは、市役所の専属運転手がついて市内のあらゆるところに出かけるのだ。知らない道、場所はないといっても過言ではない。当然、市の運転手は市内各地を熟知している。
それに、大きな市長公用車で狭い路地にもどんどん入っていくのだから運転技術も優れている。冷静沈着で、折り目正しい。そういう人が選抜されているだろう、と思った。

そんな、市長車の運転手ほど私は道も場所も知らない。イメージする人物像からもかけ離れている。
「○○公民館に行ってくれ」「次は○○病院だ」「次は○○会社だ」
なんて指示されても行けるはずがない。行けたとしても地図とニラメッコの後、ひどければ地図を開きっぱなしで、だ。

私  「勘弁して下さい、無理ですよ」
元上司「大丈夫、とても気さくな人だし、君ともうまくいくよ」
夫人 「大丈夫だって。あんたみたいな生意気なくらいなのがいいのよ」
長女 「うちの事務所、若い人がいないから是非来てください」
私  「…」

こうして押し切られて、最後は引き受けた。
大役は荷が重い反面、正直嬉しくもあった。
「選挙を何度かやってきて、俺も少しは認めてもらえたのか」
という気持ちになったものだ。
(続く)

| 11:41 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦その3
4.日本社会党神奈川県本部

こちらはやはり伝統の社会党だった。ビルは古びて薄暗く、ポスターもたくさん貼ってある。職員の人たちは親切だったが、歴戦の兵、といった雰囲気だ。
だが、意外な?発見もあった。若造の私のことを、ベテランの職員のひとが
「柳田さん」
と呼ぶ。これまで務めていた会社は、呼び捨てか「くん」だった。が、ここでは「さん」付けだ。これはまあ、職場の「文化」だろうが、労働者を尊重する社会党の精神なのだろうか、なんて勝手に解釈していた。

さて、参議院の選挙は規模が大きい。選挙区は神奈川県全域で、当選するには数十万の得票が要求される。候補者は「斉藤勁(さいとう・つよし)」横浜市議会議員。
横浜市職員出身で、巨大組織の自治労の支援を受けての初挑戦だ。社会党を支持する他の労働組合や市民運動組織がフル回転し、キャンペーンするのだ。
私は今度も運転手。担当は政党宣伝カーである。前回と違って候補者が乗ることはないので、その意味では気楽だが、今度は神奈川全域だ。その上、私の運転する車に選挙応援してくれる市議会議員・県議会議員を乗せて走り回るのだから、やはり大変な仕事には違いない。ただ、救いは道案内だった。地方議員は普段から選挙区をくまなく歩いているから、路地という路地までとにかく詳しい。マイク片手に演説しながら道を指示してくれる。これには助かった。
この仕事のおかげで横浜・川崎の街の様子をずいぶん知ることが出来た。東急線、小田急線、相鉄線、京急線、JR横浜線・南武線…。それぞれの路線、駅を利用する住民構成に特色があり、商店街・街にもそれが現れているように感じる。また、各労働組合も同様だ。私鉄、自治体(この中でも水道、バス等の交通)、教員、メーカー等々各組合毎に個別の課題があり、各組合としての立場がある。結果、運動方針にも違いが生じることになる。
一言で「労組」「連合」といっても、組合それぞれに特色があるのだ。そういうことを肌で感じられたのは大きかった。
「選挙をやると勉強になるよ」
と先輩によく言われたが、本当にその通りだと実感した。

5.見事当選

こちらの選挙にも3ヵ月ほど関わった。その間たくさんの人に可愛がってもらい、よくご馳走にもなった。友達も出来た。普段足を運ばないような地域にも行くことができたし、労働組合のこと、市民運動のことなど、とにかく学ぶことが多かった。
ただ、これは仕方がないことなのだろうが、選挙が大きすぎて、私たち運動員にとっても候補者が身近に感じられなかったのは、正直なところ少し寂しかった。

迎えた投票日。
他党の追い上げもあり、不安もあったが見事当選!市議会選挙の無念を晴らすことが出来た。
残務整理をして、知り合った皆ともお別れだ。いい人たちばかりで名残惜しい社会党県本部だった。

| 09:36 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦 その2
2.教職員組合

「湘南教職員組合に9時集合」が最初の指示。
「教組」と聞くとしり込みしてしまう。私が小・中学生の頃は、日教組運動が盛んで、デモやストもあった。教組の先生方は校長先生などに対決姿勢を隠さず、なんだか極端な考えを持った人たちだな、という印象があったものだ。それに、学校ではいつも反抗的で注意されてばかりいた私には、学校の先生の事務所はあまりにも敷居が高い。
 不安を抑え、初出勤。すると、意外に部屋は明るく、檄を飛ばすようなポスターやビラも目立たない。専従職員もみんな優しそうな人ばかりだ。
労働組合、それも日教組と聞き、もっと暗くてピリピリしたものを想像していたが、拍子抜けした。これならやっていけそうだ。

3.1995年藤沢市議会議員選挙

 最初の何日間かは事務所で看板を作ったり、ポスター貼りの準備をしたりしていたが、不器用な私はこういう作業が苦手だ。早く運転したいなぁ、と思っていると
「明日は候補者の家に直接向かって」
と言われた。いよいよ出番だ。
 当日は5分遅刻。初日からやってしまった。本人と思しき人物がすでに外に出ていて不機嫌そうに待っている。「しまった…」。しかし、気を取り直し挨拶する。
「遅くなりまして、すみません。運転手を務めさせていただきます、柳田です。」
「○○です、よろしく。」
意外に怒ってなさそうだ。大男なのに一見神経質な感じの人だ。しかし、実際は気さくな人だった。横浜市役所の幹部を務め、退職後に藤沢市議選へ出馬することになったらしいが、偉ぶるところもなく、行政のことを教えてくれたり趣味の話をしたり、運転手としては楽しく仕事が出来る人だった。
 1月から4月まで、毎日のように一緒に過ごしていたので、だいぶ打ち解けて、親しくなった。こうなったら是非、当選してもらいたい。私の家に来てもらって母の知り合いたちとミニ集会をしたり、友達にも「今度の市会、○○さんに入れてよ」と声をかけたり、(最初は恥ずかしかったが)街頭でパンフレットを配ったりと、初めて選挙運動を経験した。
 そして投票日、開票…。結果は落選。いままで何のためにやってきたのか、悔しくてたまらない。
得票は当選ラインには遠く届かなかった。教組以外の組合もずいぶん応援してくれたし、絶対受かると信じていたのだが。これが選挙か…。
その翌日、失意の中選挙事務所の後片付けをしていたら、市議選で一緒に運動した人から声をかけられた。

 「今回は残念だった。7月に参議院選挙があるので雪辱しようではないか。今度は横浜で働かないか。」

 この95年は統一地方選挙と参議院議員選挙が間を空けずに行われるという、
「亥年選挙」
つまり12年に一度の年だった(注:2007年選挙も)。
各陣営は、地方の余勢をかい、国政まで突っ走る、という感じだったのだろうか。私の頭もすっかり選挙モードになっていたので二つ返事で引き受け、横浜の社会党県本部へ向かった。
(続く)
| 11:48 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
市議会への挑戦
前回の選挙の際、出馬に至った経緯を手記にまとめた。
以前のブログでも公開していたのだが、この機会にご紹介したいと思う。いかにも稚拙なものだが、前回選挙の決意表明同様、初挑戦の意気込みの一端は表現できているかな、と自分では思っている。

〜ここから〜

市議会への挑戦

1.突然の指名
1995年1月。私は25歳にして未だ進路定まらず、悶々とした日々を送る。
高校時代より勉強そっちのけで熱中したオートバイもやめ、レーサーになる夢も破れて何もする気になれない状態だった。
そんな私を見てか聞いてか、知り合いから声をかけられる。
「4月の市議会選挙、手伝わないか」。
降って湧いた話に戸惑いながらも、体裁を繕うだけの、漫然としたアルバイトの日々に嫌気が差していたし、政治には人並みの関心はあったので、どういう候補者なのかも聞かないまま深く考えずに引き受けたのだった。

とはいえ、さすがに
「社会党系の候補者」
ということだけは聞いていた。私は生来のへそ曲がりで、与党に投票したことがなかったし、それまで行った選挙では全て社会党系(候補者)に投票してきたのだ。
話の出る数年前には「土井ブーム」に乗った社会党が大躍進したが、すでに当時の熱気はすっかり冷めていたばかりか、「自・社55年体制」への批判が高まり、かわって細川元首相の日本新党などの新党が存在感を増していた。世界でも、社会主義の崩壊ですっかり様子が変わっている。
ところが、内外情勢の変化から斜陽となった社会党と対照的に、リクルート事件など汚職続きだった政界を浄化するという
「政治改革」
を掲げて国民の期待を一身に集めた細川連立政権も、一年も持たずに崩壊。またもや政界は混乱の時を迎える。
そんな中、連立内に埋没し、存在意義が問われていた社会党は、あろうことか連立を離脱して自民党と手を組み、村山委員長を総理大臣にするという前代未聞の挙に出た。長年批判されてきた、与野党馴れ合いの「国対政治」がついに表舞台に現れたのだ。
単なる数合わせ、理念なき「野合」だ、と支持者からも大批判が飛び出していた。

それでも、私は「批判勢力がしっかりしていないと政治はよくならない、与党になって中から変える方が建設的なのかもしれない」と、まだ社会党に期待していたのだ。
その社会党に携わる運動が出来るという。
社会党の手伝い。内なる期待が実際の行動へと変わるわけだ。なんだかワクワクしてきた。ここ数年見失っていた、「自分自身の目標」が出来のだ。

ところで一体何をすれば良いのだろう。引き受けたはいいが、いい年をして私が出来ることは車の運転ぐらいだ。確かに運転には覚えがあったが、選挙の候補者の運転手が務まるほど道を知らない。
しかしそれでもよいという。候補者は横浜市役所OBで、藤沢のことはよく知らないから君にも厳しいことは言わないだろう、なんてわけのわからない理屈に納得してしまい、運転手として雇われることになった。
(続く)
| 17:37 | 手記 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
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