:::藤沢市議会議員 柳田ひでのり:::藤沢市議会議員柳田秀憲のブログです。

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政権末期
福田総理が辞任し、後継選びの動きが活発化している。
しかしこれほど民意とかけ離れた政治もないだろう。

一方、これからの藤沢市政は、先の市長選挙で掲げられたマニフェストを中心に動くことになる。
私はこのブログでマニフェストの問題点を述べてきた(個別事業の評価はこれから)が、海老根市長がマニフェストを打ち出し、それを実行しようと奮闘していること自体は評価している
それは、「民主主義上の手続きが正当」だから、という思いからである。

対して国政、自公政権の現状はどうだろうか?
政策の良し悪し以前の問題として、議会政治・民主政治の精神から逸脱している。

政策の良し悪しの判断は、私は実は大変難しい、もっといえば不可能に近いのでは、とさえ思う。国内外を問わず、社会は多様化・複雑化しており、政策の「効果」が多くの人にとってわかりやすい形で表に現われることは殆どないのではないか。もっとも、マイナス面はわかりやすいかもしれず、それを我々野党は責めているわけだが。
で、効果があったとしても、それがわかるのは数年後だったり数十年後…。
これでは、小手先の政策しか打てないのは無理もない、とも思う。
民主主義体制では、社会をリードするのは政治ではない、のかもしれない。

民主主義は「多数決」だ。
政治とは妥協することでもある。通らなかった少数意見はもとより、通った多数側の意見も妥協の産物、ということも多いだろう。
最終決着には、何かしら、みんなにモヤモヤしたものが残る
だからこそ「手続き」による「正当性」が問われるのだ。

現政権は血統正しい「正統」政権とはいえるかな。
| 14:38 | 憲法(民主主義) | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
マニフェスト予算
9月定例会が始まった。
今定例会で提出された補正予算は、市長いわく「マニフェスト」を実行するためのものらしい。

マニフェスト。
選挙民・有権者との「契約」とされる。当選した者は、選挙中に掲げたマニフェストを任期中に実現しなければ、契約不履行となってしまうのがツライところだ。
だからこそ有権者も選挙の際に候補者のマニフェストを真剣に比較して、新市長と契約を結ぶ、という建前になる。

だが、実際の有権者の意識はどうだったろうか?
100数項目におよぶマニフェストすべてに目を通した有権者がどれだけいるのだろうか?

現在、市行政の大方針は「総合計画2020」である
この総合計画をもとに各行政計画が策定され、計画に盛り込まれた事業に予算がついて実施、という流れとなる。
そして、この流れに、マニフェストが加わることになったわけだ。

しかし、劇的に財政が向上すれば別だが、普通に考えれば総合計画・各計画から廃止する事業がなければマニフェストの実行は難しい

その総合計画は、じっくりと時間をかけて練られたもので、精度は高い。そして、策定時から5年ごとに見直しもされており、実現性がより向上してきているのだ。
市長マニフェストは「精度」では総合計画には及ばないと言わざるを得ない。
これが選挙マニフェストの落とし穴であり、現時点では致し方ないとも思うが。

さて、どの事業を廃止するのか。
しかし、「総合計画2020」も市と市民との約束であることには変わりがない。違いがあるとすれば、マニフェストは「政治的責任」で総合計画は「法制度上の責任」だろうか。
市長には厳しい判断が迫られるだろうが、それは議会も同じ、だ。
| 18:27 | 憲法(民主主義) | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
総合計画とマニフェストその2
海老根市長は市長選挙の際、107項目にも及ぶマニフェストを作成し、市民に問うた。
私が見たところでは、従来の総合計画と重なるものが多いが、新規のものもあるし、整合性にかけるなと感じるものもある。
そのあたりは、今後議会で議論していくとして、今回は大雑把な話をしたいと思う。

喩え話で恐縮だが、みなさんが使っている携帯電話を考えていただきたい。携帯電話は大変便利なもので、私はヘビーユーザーの部類だと思う。
で、携帯電話が登場した当時は今から思えば滑稽なほど大きく、携帯性に欠けるものだったが、年々小型化が進み、おおむね現在の大きさで落ち着いている。これ以上小さくすると、人の手や口・耳の位置など、使い勝手が劣ることになるのだろう。
また、以前は電池の寿命も短かったし、通話圏も狭かった。さらには、通話料も高額だったが、これらも相当改善されてきている。

携帯電話の進化は
1.小型化
2.省電力化(電池の持続時間)
3.通話圏拡大
4.通話料金引き下げ

などを一つの流れとして捕らえることができるだろう。

もう一つの流れは、メールやカメラ機能、ウェブ閲覧、TV、音楽鑑賞などなど、「通話以外」の使い道の拡大である。

私は携帯電話の使い方としては、通話も多いが、同時にメールも多い。あとは、スケジュールなどの電子手帳的な使い方を少々、といった感じだ。
カメラ、携帯サイト閲覧はあまり使わないし、TVや音楽機能は全く使わない。

私はそうした人間なので、携帯電話に求めるものはとにかく通話料の引き下げとメールの使い勝手、そして電池の持続性向上である。他の機能は私には殆ど不要だ。
もちろん、それは人によるだろう。
私自身、最初はメールもいらなかった。電話機能で十分だったが、いつしかメールを使い、今は相手によっては殆どメールだけのやり取りに終始しているくらいだから、他の機能も食わず嫌いなのかもしれない。

機械というものは、人間の想像力を超えることがある。
機械自体が、人間が気がつかなかった新しい使い方を示し、人間の可能性を広げてきた。
便利になるだけでなく、新たな文化・芸術を生み出し、それこそ機械が新しい悲劇をも生んできたのだが、機械の発展こそ人類の歴史だ、といっては言い過ぎだろうか。

大げさな話になってしまった。
前置きが大変長くなったが、何が言いたいかというと、上記の携帯電話の小型化や電池の持続性向上などの従来の発想の延長線上の進化が、
「総合計画」に当てはまると感じる。

で、カメラ付き携帯や携帯サイト、GPS機能など、新しい機能・使い道が新市長の
「マニフェスト」
に当てはまるのではないだろうか。

市長マニフェストに対し、
市民はあんなことは求めていない
という批判的な意見を聞くことがある。ごもっとも、と感じる部分もあるのだが、一方で前述の通り、市民が気がつかない・さほど必然性を感じないが、いざやってみるとすごく満足度が高かった、さらには将来の藤沢市のとってよかった、という政策もあるだろう。
もちろん、携帯電話でいうところの「小型化・省電力化」等々は、引き続き追求していくわけだが、一方でカメラ付きやウェブサイト閲覧機能、TVなど、携帯端末としての新たな可能性追求に相当するような、新しい・夢のある藤沢をめざす政策も大切だと思う。

実際の海老根市長のマニフェストが「カメラ付き携帯」的なものだと述べているわけではない。あくまでも、そうした視点から捉えることが出来るのではないか、という意味で例示させてもらった。

ちなみに、私は携帯端末としての新たな機能・可能性を追及するのも悪くないが、耐久性やデザインなど、あくまで携帯電話本来の使い勝手・所有感を向上してもらいたい、という人間かな。
| 13:51 | 憲法(民主主義) | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
総合計画とマニフェスト
総合計画と市長マニフェスト、どちらが優先されるのか?

藤沢市行政は「総合計画2020」に基づいて執行されている。
総合計画とは、20年程度の中長期的な市政運営の基本方針を謳ったもので、法で各市町村に総合計画を策定することが定められている。
(いきあたりばったりでなく)「計画的に」行政運営にあたりなさい、ということだ。

この総合計画自体は抽象的といってよく、その下位に位置づけれられる、各分野毎の行動計画が具体的な計画である。
「都市マスタープラン」、「高齢者保健福祉計画」、「地域IT基本計画」などなど、各セクションで計画を策定しているのである。
これは市民に対して「今後藤沢市はこうこうしていきますよ」というアピールであると同時に国・県に向けての行動計画でもある。
このことにより、国や県の立場では、各市町村が求めている政策を考える参考にもなる、ということは市町村への補助金算定の参考にもなるわけだ。
これは、市の立場でいえば、国庫補助獲得に向けてのアピールになるともいえる。
このように、総合計画は極めて重要なものなのだ。

この総合計画は、策定のプロセスとしては学識経験者や市民委員、議会選出委員など、幅広い層から意見を求めながら行われ、最終的には議会での議決を経ることになる。民主的な手続きで出来上がったものだ。そして、繰り返すが法的なものだ。

対して、市長のマニフェストも市長選で候補者が有権者に対して訴え、それをもとに有権者は誰に投票すればよいのか参考にするものであり、これも当然ながら民主的なプロセスを経ている
総合計画、マニフェストともに民主主義の中で正当性があるが、総合計画策定にかかわったと実感している市民は極めて少ないだろう。
一方のマニフェストは投票率は伸びなかったものの、多くの市民参加を得ていると考えることもできる。
マニフェストこそ、民主主義の最たるものともいえると思う。

で、総合計画とマニフェストの間で矛盾がなければ何の問題もないのだが、矛盾とまではいわなくとも、総合計画で全く触れられていない新たな事業がマニフェストに謳われていると少々厄介なのだ。

私は議員になってこのかた、総合計画の壁に跳ね返されてきたという実感がある。
何らかの施策、例えば「運動場の芝生化」をしたい、としよう。
これを私が提案したとしたら、当局の回答は
「総合計画に入ってません」
となる(あくまでも喩えとして考えて頂きたい)。
法的存在である総合計画に入っていないものは、後回しとなってしまうのである。総合計画に謳われている政策を実現する事すら財政状況等から難しいのに、それ以外の事業の余裕など無い、ということだ。
実際にはそこまで言いきってしまうのは極端で、総合計画に無いことでも緊急性が高かったり国の施策変更があった場合、つまりは国が金を出すということがあれば事業化はされるのだが、まあ、そんなニュアンスだと受取っていただければ、と思う。
いずれにせよ、

総合計画は市行政の「バイブル」となっている

のは確かだ。

そして、新たに市長マニフェストというバイブルが加わったわけだ。
確かに、2020年まで現在の総合計画通りに行政執行するのであれば、市長が変わる意味はない。海老根市長自らの政治的思想・時代感覚を打ち出すのは当然だと思うが、総合計画2020の実現すら難しくなっている財政状況のいま、この上
市長マニフェストが入り込む余地は残されているのだろうか?
ということなのだ(続く)。
| 22:32 | 憲法(民主主義) | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
財政民主主義
このブログを読んだ方から、私が
「なぜ(ふじさわ)ブランドに拘るのか、よくわからない」
旨のコメントをいただいたので、いくつか付け加えたいと思う。

私たち市議は
「市役所は適正に事務を行っているか?」
とチェックするのが仕事だ。
オンブズマン委員会や監査委員会等々、議会以外にもチェック機関はあるが、やはり民主主義の基本は市民の監視である。
それを、民主的な選挙で選ばれた市議が市民に代わっておこなうのが
「代議制民主主義」
であり、この制度自体は多くの人に基本的には受け入れられていると思う。

もちろん、
「議会・議員はチェック機能を果たしていない」
という批判もあり、どのようにして議会の機能を向上させるか、ということは大きな課題だと私も思う。

議会云々はひとまずさておき、この代議制民主主義はつまるところ
「財政民主主義」
だと思う。
市民が納めた税金を、行政が
「どのように使うか」
ということを民主的に話し合い決定する。また、
「どのように再配分するか」
ということも税の機能としては重要だ。

この再配分機能は、主に国税が担っており、自治体レベルでは
「行政サービスの対価」としての市税(住民税)といえると思う。
いずれにせよ、集めた税をどう使うか、ということを市民に代わっておこなうのが議会なのだ。

藤沢市民は藤沢「市税」を納めるわけで、住民税といっても「鵠沼税」とか「片瀬税」、「湘南台税」はなく全ては
「藤沢市税」
である。
当然、「湘南税」もない。

確かに藤沢市民は「県税」と「国税」も納めている。だから、例えば県や国の金が「湘南地域」のために投入されれば、それは県民・国民として行政サービスを受けていることになるので、市域に拘らなくてもよいかもしれない。
藤沢市民が、藤沢市よりも「県」や「国」の恩恵を多く受けているという感覚ならば、民主主義的には「市」に拘る意味はさほどないかもしれないが、実際はどうだろうか?

乱暴にいわせていただく。
藤沢の市税収入は約700億円。で、
国と地方の税配分は「1対2」
なので、40万藤沢市民は
「市税を約700億円」
負担し、県税収約1兆円弱を人口比でみれば、880万県民に対して40万市民だから概ね1/20となり、藤沢市民の
「県税は約500億円」
の負担、となる。
市・県税の二倍が国税となるので、藤沢市民は
「国税を約2400億円」
負担している、という格好になる。
ちなみに、国税約50兆円を藤沢/国の人口比約1/300だから「約1700億円」程度となるが、私は上記数字の方が実際の額に近いとにらんでいる。

長々と書いたが、つまり国・県に払う方がもらう方より断然大きい、と言いたいワケだ。
こうした状況でどこまで財政民主主義が機能しているのか疑問があるのだ。
地方分権が叫ばれる所以である。

もちろん、上記で述べた藤沢市民の税負担に関しては、直接国や県の予算で行われる事業(国道や警察など)は考慮していないし、藤沢市民の税金が財政力が弱い他の自治体へより多く流れているのが「けしからん」というつもりはない。
藤沢一市で全てが完結するわけもないし、同じ県民・国民だ。
それに、外交・防衛、治安・司法、経済・産業、金融・外為などなど、それこそ市域のレベルではない。
大変大雑把かつ不正確な考察で申し訳ないが、全体のイメージは伝わると思う。

話を藤沢市に戻すと、藤沢市民から集められた市税をどのように使っていくのか、である。
市税は、納税者としての市民みんなで考えていくのが筋だ、と私は思う。

山本市長も
「藤沢市の方が鎌倉市よりも都市投資を行ってきたので、鎌倉に吸収されるのは残念だ」
というようなことを言っていたが、長年藤沢市民が藤沢市に納めてきた税金を使って、市行政は様々なことに取り組んできた、ということの意味は重い。

藤沢市は伝統はそれほどないかもしれない。
だが、藤沢市が蓄積してきた都市施設などの財産は小さくない。
財政は、今時点のみならず
「貸借対照表」
的な視点からも論じなければならないのは当然だ。そして、
藤沢市行政は、国や県にそれ程世話になってきたわけではなく、市民の担税力を支えとしてこれまで頑張ってきた
ことは、市の歳入構造をみれば明らかだ。

市民が税金を納めて市をつくってきた、という極めて当たり前の事実だが、
どこの市でもそうか、というと違うだろう。
これは一般質問の際も言及しなかったが、あえて触れておきたい。

こうした視点からも、私は「ふじさわ」に拘るのだが、納税者たる多くの市民が
「藤沢の名前なんてどうでもいいよ」
というのならば話はまた別で、湘南でもなんでもいい。
ただし、財政民主主義や藤沢「市税」という視点が欠かせない、とは言いたいのである。
| 23:45 | 憲法(民主主義) | comments(0) | trackbacks(0) | posted by 柳田ひでのり |
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